世界名鐘物語
日本・長崎市の「長崎の鐘」をご紹介いたします。
日本
「長崎の鐘」
「長崎の鐘」は、長崎市・浦上地区浦上天主堂「アンジェラス(アンゼラス)の鐘」です。
1945(昭和20)年8月9日に、長崎に原爆が落とされ、「アンジェラス(アンゼラス)の鐘」は、
「長崎の鐘」になりました。
より正確に言えば、「長崎・原爆の鐘」です。
浦上天主堂
浦上天主堂本聖堂の建立着工は、1895(明治44)年に遡ります。
資金難から工事はとだえがちで、本聖堂が完成したのは、1914(大正3)年でした。
1925(大正14)年には、高さ26mの双塔部が建て増しされ、フランス製大小2個の鐘、
「アンジェラスの鐘」が取り付けられました。
東洋一の大聖堂として、日本のカトリック教会のシンボル的存在になりました。

1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が落とされ、「浦上天主堂」は倒壊しました。
双塔も、「アンジェラスの鐘」とともに、崩れ落ちました。
全壊した天主堂の瓦礫の中から、小さい方の鐘は壊れてしまっていましたが、
何と、大きい方の鐘が、ほぼ無傷の状態で掘り出されました。
同年(昭和20)12月24日のクリスマスイブに、仮設の支柱を建て、
再び「アンジェラスの鐘」が鳴らされました。
1959(昭和34)年、戦後の苦しい生活の中から、「浦上天主堂」が再建されました。
「アンジェラスの鐘」の鐘も、右塔に設置されました。
1980(昭和55)年、ローマ法王の訪日に際して、赤レンガの外壁と、ステンドグラスの窓に改装され、
現在の美しい浦上天主堂に再生されました。

浦上天主堂
鐘が設置されている双塔 右塔に「アンジェラスの鐘」が設置されています
「アンジェラスの鐘」と「長崎の鐘」
「アンジェラスの鐘」が「長崎の鐘」になったのは、当時、長崎医科大学放射線科部長であった、
永井隆博士が「長崎の鐘」を著したことによります。
1945(昭和20)年、長崎に原爆が落とされ、妻を失い、自らも被爆して重症の身ながら、
永井博士は救援活動を続けていました。
翌21年には、寝たきりの状態になり、昭和22年には、周囲の人たちが建ててくれた「如己堂」に移り住んで、
執筆活動に専念しました。
「長崎の鐘」、「亡びぬものを」、「ロザリオの鎖」、「この子を残して」など、次々と書き著しました。
24年に、米軍から発行が許可された「長崎の鐘」は、大きな反響を呼び、ベストセラーになりました。
同年、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、歌手藤山一郎でレコード化された「長崎の鐘」は、大ヒットしました。

「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」と歌詞にある通り、この浦上天主堂「アンジェラスの鐘」、
別称「長崎の鐘」は、当時、長崎の被爆者たちをなぐさめ、はげましました。
否、長崎の被爆者にとどまらず、戦後の日本の全国民をなぐさめ、はげましました。
まさに、「日本の名鐘」と言えます。
鐘の直径1メートル、高さ85センチ、重量600キロ強(推定)です。
現在も、5:30、12:00、18:00の1日3回、「長崎の鐘」は鳴らされています。

♪サウンドをお楽しみ下さい(4回鳴ります)♪
「長崎(アンジェラス)の鐘」正面 同背面
鐘に浮き彫りされた「十字架のキリスト」
「如己堂(にょこどう)」
「長崎の鐘」の著者永井隆博士が、寝たきりで執筆活動を続けた、住居「如己堂(にょこどう)」です。
長崎市永井隆記念館「如己堂」 「如己堂」の中は、二畳一間
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